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   株式会社 日東社 は 表面処理の会社です。

TEL. 0466-48-6200

〒252-0822 神奈川県藤沢市葛原1692

概要理念環境方針社歴

当社のあゆみ

1956年

 当社は、創業者の初代長谷川正三が太平洋戦争終結直後の1946年2月、東京都品川区大井でめっき加工業を行っていた「日本鍍金工業株式会社」を買収し、同年10月社名を「株式会社日東社」に変更して発足した会社です。
「日東」は一般になじみのある言葉ではありませんが、中国からみて東方の太陽(日)の出る国を意味し、「日本」の別称とされています。この名にしたのは、いまは小さな町工場でも、いずれは日本を代表する会社になりたいという大きな願いがこめられています。

 この頃行われていためっき加工の工程は、研磨機2台による研磨、錆び取り(前処理)、めっき、後処理で、常温硫酸銅めっき法、ワット式ニッケルめっきおよびクロムめっき法が用いられていました。

 当時は戦後の混乱の最中であり、労働争議の勃発やドッジライン強行後の不況が続き、創業期の苦難が続きましたが、朝鮮動乱が勃発すると、やがて特需景気にわき、自動車業界はトラック生産を中心に復興が始まりました。その影響はめっき業界にも現れ、当社にもトラック用大型バンパーやラジエーターグリルなどトラック部品の受注が入るようになりました。創業以来、自転車部品や電気器具類の加工を主としてきた当社にとって大きな転機になりました。

 自動車関連のめっきは、厚みと質の高さを求められ、技術開発、改良に拍車がかかりました。朝鮮動乱によりニッケルが入手できない時代には、業界に先駆けてニッケルめっきの代用となる「青化銅めっき」の技術開発に成功、これに平行して不純物除去を目的とした精密大量濾過機を開発し、青化銅めっきの技術向上に大きく貢献しました。

1956年〜1968年 第1次成長の時代

 1950年代後半になると、国内の自動車産業は活況を呈し、当社も単なる町工場ではなく、本格的なめっき工場へ脱皮する必要がありました。こうした状況下、1955年3月、羽田空港近くの中小企業工場群である東京都大田区糀谷に用地を取得し、新工場の建設に着手、翌1956年7月に操業を開始しました。新工場は、鉄骨を使用した頑丈な作りで大井町工場の3倍の広さとなり、めっき槽のサイズも2倍の大きさになりました。

 めっき槽への出し入れは、大井町工場と同じように手作業でしたが、受注部品が大型化し、受注量も増大すると、それではこなしきれなくなってきました。そこで大量生産を可能にするための機械化が進み、ホイスト(小型電動クレーン)が導入され、これまで手作業であっためっき作業が機械化されました。そのほか自動研磨機も導入されるなど、「職人技のめっき屋」から「科学的表面処理業」への変革の時期を迎えました。

  一方、めっき技術の開発については、1961年に「銅めっき仕上げ研磨レス」の装飾クロムめっきの工業化に成功し、1963年には耐蝕性の向上につながる「二重ニッケル」の加工技術の工業化に成功しました。さらに1965年には「半光沢ニッケル+トリニッケル+光沢ニッケル」のめっき技術を完成、これらの技術開発は受注増加につながり、業績拡大に寄与しました。

 当社の業績は、自動車業界の発展に伴う旺盛な需要に支えられ、その後もめざましく伸張を続けました。糀谷に移転した1956年と藤沢移転直前の1968年を比べると、12年間で資本金は10倍、売上高は11倍、在籍人員は27名から114名へと増加しました。

1969年〜1972年 第2次成長の時代

 自動車メーカーは1960年代には貿易自由化の対応に追われ、量産化によるコストダウンを図るため新工場の建設が相次ぎました。当時、当社の最大の受注先であったいすゞ自動車でも1960年に藤沢市土棚に新工場の建設を開始し、その一方で、当社を含む協力会社に対して、周辺に工場を建設するよう呼びかけました。当社はこの要請を受け入れ、1961年に藤沢市葛原に用地を取得、1965年からは新たに板金加工事業を開始しました。これは当社がめっき加工以外の事業に進出する第一歩となりました。

 1969年に総工費1億1000万円をかけた藤沢工場が完成し、糀谷工場から設備等を移管し、藤沢工場への集結が行われました。藤沢のめっき工場は、全長70メートルのめっきラインに前処理用タンク、めっき用タンクなどが設置され、天井には自動搬送装置が4台設置されました。

 めっき工場ではめっきに重金属その他の薬剤を使用し、その廃水処理が重要な課題となります。1960年代より公害問題が注目を集めるようになり、公害規制が厳しくなっていきました。当社では藤沢工場の建設に先立ち、無公害を目標として、めっき基本技術、前処理工程、廃水処理設備の研究などを行い、工場建設にあたってはその成果をふまえ、公害防止を中心に各工程を決め、施設・設備の配置を行いました。

1973年〜1982年 自動車業界環境変化への対応

 藤沢新工場の操業が軌道に乗り始めた1971年、アメリカのニクソン大統領がドル防衛策を発表、いわゆるドルショックが起こり、1ドル=360円の固定相場制が崩れて変動相場制に移行し、年末には1ドル=308円にまで上昇しました。これをきっかけにして、国内では円高不況が起こり、各企業ともその対応に追われました。さらに第一次オイルショックが発生し、物価が異常な高騰を示しました。自動車業界では原材料、資材が著しく高騰し、製品の値上げに踏み切ると売れ行きが悪くなり、これまで急成長を続けてきた自動車メーカー各社はかつてない厳しい局面に立たされました。

 当社にとっても厳しい環境に変わりはなく、1970、1971年には利益が激減し、1956年以来初めて無配に転落しました。当時、当社の主要顧客であったいすゞ自動車は、体質改善の一環として1974年に品質保証購入制度を発足させ、取引先から納入される部品の品質向上を求めました。これに対応するため、当社では1975年にQC委員会を発足させ、品質管理や品質保証について討議し、社内規程類の整備を行うなど品質管理体制の向上を進めました。この結果、いすゞ自動車品質管理部の監査を無事パスし、第1回直納指定工場に認定されました。

 その後もコストダウンの活動は手を緩めることなく進められ、いすゞ自動車が推進するFPS(いすゞ生産方式の略。生産の仕組み、物の流れ、型や設備の改良、在庫圧縮など生産にかかるコストを改善する仕組み)に対応した生産方式の確立や小集団活動等など全社的な改善活動を進めました。

 また、コストダウンにとどまらず、1978年の電着塗装ラインの新設や1987年の無電解めっきラインの新設など、めっき技術を駆使して表面処理分野の拡大を図りました。

1983年〜 住友金属鉱山の資本参加

 住友金属鉱山は、1590年に創業、住友の発祥である別子銅山(愛媛県)の経営を継承した住友の源流企業です。現在は、金、銅、ニッケルなどの非鉄金属の資源開発、製錬および素材のノウハウを駆使した電子・機能性材料をコアビジネスとして、国内外で広く事業を展開しています。

 当社とは、めっき原料である電気ニッケルの購入元として古くから取引がありました。市場でニッケルが不足し価格が急騰したときでも、住友金属鉱山は供給責任を守り、長年の間で両社の信頼関係が培われていました。創業者の長谷川正三の死後、所有株式、経営権の譲渡を検討していた当社と非鉄金属事業の川下展開を考えていた住友金属鉱山との思惑が一致し、1988年に住友金属鉱山へ80%、電気ニッケルの指定商社である佐藤商事に10%の株式譲渡が行われました(2006年に住友金属鉱山が100%取得)。それ以降、当社は住友金属鉱山の全面的な経営支援を受け、現在では当社の第2の事業の柱として、住友金属鉱山の材料事業の主要製品である液晶モニター向け基板材料を生産しています。